ときのこえ 2017年2月号

キリストは内 藤井 健次

ときのこえ2017年2月1日

二月三日は、「節分」として、神社仏閣や施設等でも「鬼は外、福は内」と叫びながら豆まきをしています。そして、まかれた豆を自分の年齢の数だけ食べると、厄除けになり、体が丈夫になると言われています。

一説に、平安時代、都を荒らす鞍馬山の鬼の目を大豆の炒り豆で打って退治した故事伝説がこの豆まきの由来、とあります。

さて、キリスト教の伝道者であったパウロは、自分の心の中に、「罪が住んでいる」と言いました。彼は告白しています。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
……わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマの信徒への手紙7章15、19、20節)

パウロは、自分を苦しめ、悩まし、惨めにさせるのは、「鬼」ならぬ「罪」であると言っています。頭では、「正しいこと、してはならないこと、しなければならないこと」がわかっているけれども、心が、善よりも悪に傾いて罪を犯してしまう、と。これは、豆をまいても恵方巻を食べても解決できない、わたしたち人間の内面にある、罪によるものです。

イエス・キリストは、弟子たちに言われました。
「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。」(マタイによる福音書15章18〜20節)

盗みをしないまでも、他人の持ち物をうらやみ、欲しがる心。殺人まではいかないまでも、人を蔑み、侮辱し、憎む心。不倫、差別、痛ましい事件の背景には、人間の心の奥底に渦巻く罪深い性質があるのです。パウロは、この情けない、自分の罪ある姿に、つい悲痛な声をあげています。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」(ローマの信徒への手紙7章24節)

この苦しみ、嘆き、惨めな姿から、わたしたちは解放されないのでしょうか。救われないのでしょうか。パウロは続けています。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマの信徒への手紙8章2節)

そうです。わたしたちの罪のために、十字架に架けられ、墓に葬られ、三日目によみがえられた主イエス様を信じる時、わたしたちは赦され、心に渦巻く罪から解放されます。それだけではありません。罪の汚れが洗われたかのように、きよくされたわたしたちは、イエス様のご性質をいただけるのです。それは、
「……愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤの信徒への手紙5章22、23節)

季節の節目を迎えるこの時、 「キリストは内」と、イエス様を救い主として信じ、心の内にお迎えすることをお勧めします。そして、罪ある生活から解放され、イエス様のご性質をご自身の人生にいただくことができますよう、お祈りいたします。

(救世軍士官〔伝道者〕)

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