ときのこえ 2019年8月号

理解できない現実の中に 西村 保

ときのこえ2019年8月1日

このところ毎年、各地で大きな災害が続いています。そのたびに大変痛ましい思いを抱きながらも、次から次へと続くことで、私たちの感覚が追いついていかない、というのが正直な思いではないでしょうか。

特に、すでに被害を受けられ、復興に苦労されているところに、追い討ちをかけるかのように災害が起こると、被災された方々のことを思い、やりきれない、いたたまれない思いにさせられます。

生命を奪われること―これほど大きな苦しみはなく、なぜ、このようなことを神様はなさるのか? と人間の知恵では理解しようとしても、できないことがたくさんあります。

聖書はこう告げています。
「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8編4、5節)

すべての被造物の中で、人間は神様を知ることのできる貴いものとして創造され、神様は常に人間を心に留めていてくださるという約束です。

同時に、聖書はこう示しています。
「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレトの言葉3章10、11節)

人間にはすべてを知ることは許されていません。時にベールに包まれ、神様に隠されることがあるのです。しかし、知るべき時が来れば、神様は啓示の光をあてて、私たちに教えてくださる、というのです。

聖書の言葉は続きます。
「わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」(コヘレトの言葉3章14節)

神様があえて隠されることがあるのは、そのような中にあって、人間が神様を畏れ敬うことが求められているからではないでしょうか。たとえすべてを知ることができたとしても、かえって人間は神様を忘れ、その知識を良いことに使うことができない、という愚かさをもっているからです。

聖書は、この世界に罪が入ってきた時のことを記しています。アダムとエバは、蛇の姿をした狡猾な悪魔の試みに負け、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という神様の声に聞き従うことができませんでした。

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3章7節)

神様のみが知ることを人間が超えようとして犯した、最初の失敗でした。人は、この罪によって、愛すべき存在にも互いを隠すような生き方をしなければならなくなったのでした。

イエス・キリストは、この人間の罪をご自分の身に負って十字架で死なれ、復活されました。私たちは、神様の御業をすべて理解することはできません。けれども、イエス・キリストを信じる時、十字架の死の後に復活があるように、すべての理解しがたい出来事の先に救いがある、という希望を抱くことができます。

災害や毎日のように報じられる悲しい事件、 「なぜこんなことが……」という現実の中にも、イエス・キリストによる神の救いの力によって、それぞれの場所や心に「復興」・「回復」があるよう願ってやみません。そのお手伝いをさせていただきたい、と祈りつつ、救世軍は働きを進めております。

(救世軍士官〔伝道者〕)

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