家庭団コータリー 2014年10月号

10月教育プログラム

村岡花子と救世軍  樋口 愛子

聖書箇所 ローマの信徒への手紙5章5節
救世軍歌集 280番 うつりゆくときのまも

アンのゆりかご表紙

 「今曲がり角に来たのよ。曲がり角をまがった先に何があるのかは分からない。でも、きっと一番よいものにちがいないと思うの。」
 『赤毛のアン』の主人公アンが、ひきとってくれたマシューの死後、その妹マリラに寄り添うために、奨学金を辞退し、教師として村に残る決心をしたことをマリラに話した時の言葉です。たとえ人生の計画が思う通りにいかなくて失望することがあっても、なお、希望をもって進もうとするアンの生きる姿勢がよく表されています。
 『赤毛のアン』―皆さんもきっと、少女時代に読んだことのある本の一冊でしょう。アン・シリーズを夢中になって読み、すっかりアンのファンになった方もおられるでしょう。
 今年の前半、朝の連続テレビ小説で、この本を最初に翻訳して日本に紹介した村岡花子が取り上げられました。そのことで、改めてこの本に、そして著者のL・М・モンゴメリーと共に翻訳家の村岡花子にスポットライトが当たっています。ドラマの原作は、『アンのゆりかご』という花子の孫にあたる村岡恵理さんが書かれた花子の生涯を描いたものです(脚色によって事実とは異なる部分が多々ありますが)。
 私も、少女時代から愛読していたアン・シリーズをはじめ、『少女パレアナ』や『王子と乞食(こ じき)』、『若草物語』など、村岡花子訳のものをずいぶんたくさん読んできました。しかし、村岡花子については、今までほとんど知りませんでした。それが、『アンのゆりかご』を読んで、その生涯の中で、救世軍とのかかわりがあったこと、翻訳家としての花子を世に送り出したきっかけや、生涯の伴侶(はん りょ)との出会いにも、救世軍が一役買っていたことを初めて知りました。その一端をご紹介したいと思います。

 村岡花子は、一八九三(明治26)年、救世軍が日本に上陸する二年前に甲府に生まれます。本名は安中はな。父逸平はカナダ・メソジスト派のクリスチャンで、はなは二歳の時幼児洗礼を受けています。その後、一家は上京し、はなは十歳の時、東洋英和女学校に編入学(給費生として)、十年間をミッション・スクールの寄宿舎で暮らします。この間に受けたカナダの宣教師たちによる厳しいしつけと教育、特に大好きになった英語が、村岡花子という一人の女性の人格をかたちづくり、アンに負けないくらい、前向きで自分の信念を貫く女性へと成長させたのです。
 やがて、卒業後、一時、山梨で教師をしますが、二十六歳で再び東京に戻り、日本基督教興文協会(後に教文館と合併)に勤め、翻訳や編集の仕事に就きます。そうしながら、「子供も大人も楽しめる家庭文学」の道を志し、自らも童話や少女小説を書き、また翻訳をしていました。
 ここで、救世軍との接点が出てきます。山室軍平が花子に翻訳を依頼するのです。その本は、英国の士官ミルドレッド・ダッフ中将が書いた本で、『モーセが就学せし國(くに)』と訳され、救世軍出版供給部から出されました。花子にとっては、二冊目の翻訳本です。当時の『ときのこえ』を見ると、この本の広告が何号かにわたって出ています。出エジプト記の物語で、当時の士官子女には一冊ずつ贈られたそうです。花子はその本の訳者序で、「私の聖書に対する興味は以前よりも一層深く呼び起され…云々」と書いています。
 この出版から四十年後、一九五九(昭和34)年に、花子は救世軍全国大会の女性大会に招かれています。その集会の中で「救世軍と私」と題して感話をしました。当時の『ときのこえ』に、救世軍神田中央会館の高壇上で制服の士官たちと共に立つ、和服の花子の写真が出ています。また話の中で、若い頃に山室中将に翻訳を依頼されてとてもうれしかったこと、たいへん親切にしていただいたことを感謝された、と記事に載っています。その後も、何度か救世軍の行事に招かれた写真などが残っており、救世軍とかかわりをもっていたことがわかります。

『モーセが就学せし國』の奥付

 さて、先の翻訳本(現存しているものは少ない。7ページ参照)の奥付(下の写真)を見ますと、そこに、三人の名前が並んでいます。山室軍平を挟(はさ)んで、安中花子と村岡儆三とありますが、この村岡氏が花子の最愛の夫となった人です。村岡氏は当時銀座にあった印刷会社の責任者で、当時の『ときのこえ』の印刷も請け負っていたようです。二人は、この翻訳本の出版を通して意気投合し、やがて半年後、大恋愛の末結婚したのです。ですから、二人にとってこの本の翻訳・出版を依頼した山室軍平は、奥付が示す通り、キューピッドの役割を果たしたとも言えます。

 結婚後、花子は幸せとともに、様々な困難、悲しいこと、つらいことにも出遭いましたが、家庭と仕事を両立する女性として七十五歳まで、翻訳家としての生涯を貫きました。
 特に、この『赤毛のアン』の翻訳は、一九四五(昭和20)年、太平洋戦争の真っ只中(ただ なか)で推敲(すい こう)され、花子にとって命がけで仕上げられたものです。空襲のサイレンの中、風呂敷にくるまれて防空壕(ごう)に避難させられたことも度々(たび たび)あったようです。この原書『アン・オブ・グリーン・ゲイブルス』(Anne of Green Gables)は、一九三九(昭和14)年に、帰国しなければならなくなったカナダ人女性宣教師ミス・ショーが友情の記念に、花子に手渡したものでした。
 「いつかまた、きっと平和が訪れます。その時、この本をあなたの手で日本の少女たちに紹介してください」と託された花子は、この時、「ミス・ショー、約束します。平和が訪れた時に、必ずこの本を翻訳して日本の多くの人に読んでもらいます。それまでどんなことがあっても、この本を守ります」と決心し、誓ったのです。
 戦争へと向かう困難きわまる時勢の中で、カナダ人女性の真情、カナダ人の本当の心を伝えてほしいという思いを、自分の「ミッション(使命)」として受け止めたのです。
 その約束はついに、一九五二(昭和27)年、サンフランシスコ講和条約が発効され、GHQが廃止されて、日本が独立国となった年に果たされました。『赤毛のアン』というタイトルで出版されたのです。ミス・ショーから贈られ、使命を与えられてから十三年の月日が経っていました。『赤毛のアン』は、すぐに日本中の若い女性たちの心をつかみ、たちまちベストセラーになりました。そして熱心な読者に応(こた)え、それから一九五九(昭和34)年、花子が六十六歳になるまで、七年にわたり、十冊のアン・シリーズを翻訳、出版しました。
 花子自身が、この著者であるL・М・モンゴメリーの人生観そのものに共鳴し、格別に親近感を覚えていたようで、その後もモンゴメリーの著書の翻訳十七冊を手がけました。ひとりの夢の実現よりも、共存の道を選ぶ。それは挫折(ざ せつ)や犠牲ではなく、その新しい道で幸福を見いだし、周りの人々をゆっくりではあるが幸福にする。その描く物語は、まさに花子が目指(め ざ)す「子供も大人も楽しめる家庭文学」であり、「非凡に通じる、洗練された平凡」でありました。
 七十歳の時、夫儆三氏を天に送り、晩年も翻訳活動を続け、一九六八年、七十五歳で天に召されました。告別式は大森めぐみ教会で執り行われ、参列者千余人、救世軍の山室民子大佐補も感謝の言葉を述べました。
 少女時代から英語を身につけ、多くの「子供も大人も楽しめる家庭文学」を翻訳しながら、生涯、和服しか身に着けず、アンの物語の舞台であるカナダのグリーン・ゲイブルス(プリンス・エドワード島)には、とうとう行けませんでした。初海外は、召される前年、アメリカに娘のみどり一家を訪問した時で、これがたった一度だけの海外旅行でした。しかし、その豊かな想像の翼を働かせて、きっと、まだ見ぬ美しい自然の光景をも楽しんでおられたのだろう、と思います。
 
 今回、村岡花子という、今まであまり知らなかった女性の生涯を見る機会が与えられ、感謝でした。その人格の礎(いしずえ)の部分に、イエス・キリストの教えを土台としたミッション・スクールでの育(はぐく)みがあったこと、また翻訳家村岡花子としての一人の女性の才能を引き出す最初のきっかけに、救世軍が用いられたことについて、神様の摂理の不思議さを感じ、感謝するものです。

(文書部長補佐・少佐)

『モーセが就学せし國』(救世軍出版供給部)
『モーセが就学せし國』(救世軍出版供給部)

村岡花子が書いた訳者序
村岡花子が書いた訳者序

1959年、救世軍女性大会に招かれた村岡花子(和服姿)
1959年、救世軍女性大会に招かれた村岡花子(和服姿)

その日のプログラム用紙
その日のプログラム用紙

「感話 村岡花子女史」とある
「感話 村岡花子女史」とある