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ときのこえ
2024.12.01(日)

ときのこえ2024年11月号

あなたには帰る所がある

 大里忠弘


 聖書にある「放蕩息子」の物語(ルカによる福音書15章11~32節)をご存じですか。二人兄弟のうちの弟が、父親から生前贈与を受けた財産を持って家を出て散財したあげく、食うに困って父親のもとに帰って来る物語です。

 父親は弟息子を歓待します。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。父親は連日、道の彼方を眺めて、息子の姿を捜したのでしょう。その姿を見つけるや駆けより、一番良い服、指輪、履物、さらに肥えた子牛を屠って宴会を開きます。そこに一日の仕事を終えた兄が戻ってきます。宴会の事情を知った兄は家に入ろうとしません。弟が帰ってきたことを喜べず、父の態度に不公平なものを感じて腹を立てたのです。

 この弟息子が皆さんの身内にいたらどうでしょう。親の財産を使い果たし、好き勝手なことに明け暮れ、家族にさんざん迷惑をかけていた者が困り果てて戻って来たとして、何もなかったように許すことができるでしょうか。いくら何でも人が良すぎる。兄の怒りはもっともです。父親の非常識さが際立つ展開です。

 物語の焦点は、この非常識さにあります。放蕩息子を受け入れる父親の、非常識なまでの愛。この世の常識とは別の、神の国はこういう所だという話なのです。

 弟息子は食べるものもなく困り果て、我に返ります。自分の不甲斐なさを認めるのです。

 自分が何をしてよいか、どう生きたらよいかわからない。その答えを求めて迷う様を自分探しと表現します。本当の自分とは、その人自身の内にあるのだと思いますが、今の自分に満足できず、自分を受け入れられない人は、外に自分を求めます。誰かと比べて嫉妬したり、自分を蔑んだりします。外に自分を求めても決して見つかりません。自分に目を向け、内省することではじめて、神からいただいた本当の自分を受け入れることができるのです。

 非常識なまでに徹底的に人を愛してくださる神は、悔い改めて神のもとに立ち帰る者を、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って、何の条件もつけずに迎えてくださいます。

 私は、自分が放蕩息子であったという感覚はありません。むしろ、親元で何不自由なく暮らし、守られていた兄のほうだと思います。神はひと時も私を見放すことなく、見守っていてくださったのだと思います。

 放蕩息子を非常識なまでに愛してくださる神は、どのような人でも迎えてくださいます。放蕩する、しないに関係なく、弟も兄も関係なく、我に返った者を同じように迎え入れてくださるのです。我に返る、本来の自分に返るというのは、神が自分に与えてくださった姿を受け入れるということです。その時、神のもとに帰るのです。「自分は仏教の家に生まれたから、帰るのは神の所ではない」と言う人もいるでしょう。しかし、私たち人間は一人残らず、父なる神から命を与えられたのです。どんな宗教的背景があろうが、神から見れば皆一緒です。すべての人にとって、帰る所は父なる神の所です。

 この背景には、キリストの十字架という事実があります。神の御子イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって、私たちが父なる神のもとに帰る道を開いてくださったのです。

 神に背を向け、自分本位に生き、迷いの人生を送っていても、周りの人に迷惑をかけるような生き方をしていても、自分の無力さに気づき、神に助けを求めるならば、神は両手を広げて何の見返りも求めずに迎え入れてくださいます。ぜひ、教会をお訪ねください。

(救世軍桐生小隊〔教会〕所属)

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