ときのこえ 2017年10月号

聖書の感化力 山室 軍平

ときのこえ2017年10月1日

聖書は、ただ読んで満足するべきものではなく、進んで信じるべきものです。ウイリアム・ブース(救世軍創立者)のこの世での最後の言葉は、 「もしあなたが信じるなら、神の約束は確実です」でした。聖書は、神様が人間に授けてくださった約束書のようなものです。私たちが罪に悩む時、誘惑に苦しむ時、貧乏、病気、災難、失敗、迫害、死の恐れ等に心悶える時、その他、どんなとき、どんな場合でも聖書の中にはふさわしい慰めと守りとお約束があります。素直に信じて神様にすがるなら、神様は必ずその信じるとおりに私たちに応えてくださいます。

ですから、私たちも聖書を読むだけでなく、信じ、その教えのすばらしさを自分自身で経験しなくてはならないのです。聖書に「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカによる福音書1章45節)、また「もし信じるなら、神の栄光が見られる」(ヨハネによる福音書11章40節)とあるように、私たちは、あくまでも聖書の御言葉を信じなくてはならないのです。

かつて一人のスリがいました。東海道から東北へかけて、主に汽車の中で仕事をしていましたが、今まで十二回刑務所に入れられました。その彼が、十三回目に神戸で捕まり、判決を待つ間に一人の商人と同室になりました。その商人は軽い罪だったので、関係書類を家から取り寄せれば無罪になるに違いない、と家に「書類」を差し入れるよう手紙を送ったのでした。ところが妻は字が読めず、近所の人に読んでもらったところ、その人は、「書類」を「書物」と読み違えました。妻は、刑務所での退屈を本で紛らわそうとしているのだろう、厚くて安いものを、と神戸の町を探し回り、一冊の新約聖書に出合ったのでした。差し入れを受けた商人は、 「書類」を頼んだのにこれは何だ? とそばにいるスリに見せました。スリは、イエスだの、キリストだの書いているから、キリスト教の書物に違いないと言いながら、マタイによる福音書から読んでみたのでした。最初、彼にはさっぱりその意味がわかりません。それでもどんどん読んでいくと、九章一二節以下の
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
との言葉に、彼は電気に打たれたように感じたのでした。そして、きっとこれは一人の偉いお方がいて、私のような罪深い者を救うためにこの世に来てくださったに違いない、と。以来、しきりにそのことを思い巡らしていました。まもなく、一方の商人は無罪の判決を受け、その聖書を持って出所してしまいました。スリは新約聖書の続きが読みたくてたまらなくなり、必死で願い出たので許され、聖書を手に入れることができました。その後彼は新約聖書を読破し、釈放された時には、はるばる東京や横浜から昔の仲間が迎えに来たのを追い返し、数日考えあぐねた後、ついにある日教会を訪ねたのでした。そして、イエスによる救いの話を聞き、以来心を悔い改めて真面目なクリスチャンとなったのです。その後、三十年経た今では、自分で釈放者保護の働きをするようになるほどに変えられたのでした。

ああ、神様の摂理は驚くべきもの、そのご慈愛はいかに大いなるものでしょう。私が貧しさに困っていたとき、神様は私の小さな祈りを聞いてくださり、学費を与える道を開いてくださいました。聖書のコリントの信徒への手紙一13章の教えをそのまま実行する一人の友を起こしてくださったのです。彼をして、驚くほど献身的にこの愛を実行せしめ、私を助けるようにしてくださいました。私は、このことによって、全くイエス・キリストに捕らえられたと思いました。こんなことがあった以上、私はもはや名誉も利益も権力も一時の安逸も求めることなどできなくなったのです。自分も神様と人とを愛するためにだけ生き、働き、苦しみ、そして死のうと思ったのでした。

聖書を、信じるだけでなく、これに従うことによって神の国における勝利者となることができるのです。お互いにそのような生き方を、と切に祈るものです。

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