ときのこえ 2017年8月号

まことの平和 勝箆 実香

ときのこえ2017年8月1日

平和のために戦う
八月になると、私は故郷の広島の夏を思い出します。そして原爆記念日を迎える度に、あの日の朝も広島は、ジリジリとした暑さの中、蝉が鳴いていたのだろうかと思うのです。

小学生の時、平和学習として、クラスのグループで平和公園に出かけ、外国人観光客にアンケートを取りました。
「あなたは、平和のために何をするべきだと思いますか」という質問に、あるアメリカ人は、
「平和のために、私たちは戦わなければならない」と答えました。「平和とは戦いをしないことだ」と思っていた当時の私にとって、この言葉は印象深いものとなりました。
「平和のために戦う」とはどういうことでしょう。救世軍は、名称に「軍隊」の「軍」がついています。初めて耳にする方は多少違和感を覚えるかもしれません。私はそういう方に、「救世軍は神の軍隊で、武器は聖書です。戦う相手はこの世の悪です」と説明します。この意味は、「平和のために戦う」ことに通じるような気がします。

大人になった今感じることは、「平和とは、戦いがない状態ではなく、むしろ私たちが、日々、自分自身の平和や幸せを求めて戦っている状態のこと」ではないか、ということです。

まことの平和とは
それでは、「まことの平和」はどうしたら得ることができるのでしょう。

聖書は、平和の前提が神と人間との関係にある、と教えます。万物の創造主なる神は、ご自分と親しく交流できる存在として、人間を創造されました。しかし、人間は神の愛を拒み、神に背を向けて自己中心的な歩みを始めました。人間の罪は、神の思いに逆らうことに由来します。そして、この罪を負った私たちは、様々な自らの悪に苦しみ、罪によって互いに傷つけ合い、最後には、死によって滅びる、という道を辿ることになりました。

ところが、愛の神は、私たちを罪の滅びから救い出すために、御子イエスをこの世界に遣わされたのです。イエス・キリストは、平和とは対極にある私たちの生活や人生、心の中にある争いや醜いものといった悪のただ中に来られました。

聖書の中に、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソの信徒への手紙2章14節)という言葉があります。

キリストは、「私たちの平和」となるために、私たちを苦しめる罪の罰を身代わりに受けて十字架に架けられ、死なれました。そして陰府に降り、死に勝利して、三日目に復活されました。この、私たちの罪のために死なれ、復活されたキリストを信じる者はだれでも、死の力を打ち破った、勝利の行進に連なることができます。キリストによって、私たちは、神の祝福に満ちた、永遠の命の道を歩ませていただけるのです。

イエスを信じる者の勝利
この道を歩むとき、私たちは「まことの平和」を得ることができます。キリストご自身が、まことの平和、救いの道であり、ご自身のうちに、神の愛と救いが満ちているからです。

「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一5章5節)

あなたも、勝利者であるイエス・キリストを信じ、まことの平和、救いの道を歩まれますように。

(救世軍士官〔伝道者〕)

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