ときのこえ 2017年6月号

直りたいのか? 吉田 眞

ときのこえ2017年6月1日

救世軍病院の設立
第一条 救世軍病院は親しく貧困なる患者に接触してこれを救療することをもって目的とする。その方法は、
(1)外来の診療
(2)貧民窟の巡回救護
(3)入院
(4)他病院への紹介
第七条 本院は患者の自重心を傷つけざらしめんため、なるべく多少の薬価を支払わしめ、ただ、極貧者に限り全然施療をなす。但し、薬価は一日一剤金五銭を超過することなし。

これは、一九一二年、下谷仲御徒町(現在の東京都台東区)に開設された、日本で最初の救世軍病院の病院規則の一部です。注目したいのは、この働きが「貧困なる患者」に対する働きであると共に、「患者の自重心を傷つけないため、多少の薬価」を請求しているところです。ここには、弱者に対する実際的な心遣いと、その尊厳に対する配慮とが見られます。

キリストを模範とし
その背景にあるものは、救世軍病院の理念の根底にある、イエス・キリストが、人々(特に弱者)に対して示した姿勢に倣いたい、という考え方です。

ここで言う弱者とは、単に経済的に貧しい者とか、病者を指しているのではありません。心が健康であるとは言えない人、あるいは、心が病んでいるのに、そのことに気がつかないでいる人をも含んでいるのです。

一般に、病気の自覚症状がないときには、病気の発見が手遅れになることがあります。また、定期的に検査を受けていないと、病気の発見が遅れることもあるでしょう。心が病むことについても、同じことが言えるのです。

良くなりたいのか?
聖書(ヨハネによる福音書5章)の中にこんなお話が書かれています。

エルサレムの町に一つの池がありました。どうも、間欠泉であったようで、定期的に水が噴出したようです。そして、その水が噴き出す時、最初に池に飛び込んだ人は、病気が治る、という言い伝えがありました。

その池の傍かたわらに、三十年以上も病気で苦しんでおり、歩くことが困難な人がいました。

キリストは、その人を見かけ、彼に、「良くなり(直り)たいのか」 と聞きます。その質問に、彼は「(治りたいけれども、)水が動くとき、わたしを池に入れてくれる人がいないのです」と答えます。そして、キリストが彼に、「起き上がりなさい」と言うと、彼は歩くことができるようになるのです。

良くなるとは?
面白いことに、その後、神殿の中で彼に会ったキリストは、「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない」と言われます。

病気と彼の罪とにはどんな関係があるのでしょうか。「良くなった」という言葉には、病気が治ったという意味だけでなく、その人の「全体が良くなった(直った)」という意味が含まれているのです。「全体が」というのは、体だけではなく、その精神や、心までもを含めて「直った」ということを意味したのでした。

キリストがわたしたちをご覧になるとき、わたしたちの体だけをご覧になるのではなく、存在の全体をご覧になり、「全体を直してくださる」のです。精神や、心や、社会性も含めて、その体も、悩みも、喜びも、家族関係や友人関係も、そのすべてに目を留めて、「直りたいのか?」と問うてくださるのです。

あなたは?
あなたはどうでしょうか。「直りたいのか?」「健康、健全になりたいのか?」と問われたとき、「わたしの存在の全部が健康です」と答えることができるでしょうか。

イエスは、この出会いの後、こう宣言されました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、……死から命へと移っている。」(ヨハネによる福音書5章24節)

皆様のご健康をお祈りいたします。

(救世軍士官〔伝道者〕)

筆者注・文章の中で、「直る」と「治る」を使っていますが、前者が全人的な意味で「良くなること」に対し、「治る」は、病気が治る意味で使っています。

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