ときのこえ 2016年8月号

苦しむ人々のために 張田 和子

ときのこえ2016年8月1日

 皆さんの中には、「山室軍平」と聞いて「ああ、救世軍のね」と思われる方があるかもしれません。日本人で最初の「救世軍士官」(伝道者)になった人です。

 その妻である機恵子を記念した「山室機恵子記念チャペル」が、東京・杉並区の救世軍ブース記念病院にあります。ブース記念病院は、今年11月に開設百周年を迎えますが、このチャペルは、機恵子が病院開設のため、命を削って尽力したことを記念しています。

 機恵子は、岩手県花巻の藩士の娘でした。幼い時から感受性豊かな、よく考える子であったようです。教育熱心な親の勧めで18歳の時に上京し、明治女学校に学びます。明治女学校は、当時、植村正久、内村鑑三、津田梅子などのクリスチャンを教授陣に据えており、機恵子は、キリスト教の感化を受けつつ青年時代を過ごしました。

 明治28(1895)年、機恵子が明治女学校高等科を卒業した年に、救世軍がイギリスからやって来ます。たまたま、救世軍の宣教師が日本の習慣に戸惑っている様子を見た機恵子は、自ら申し出て、作法などを無償で教え始めます。また、下宿先の女性と救世軍の集会にもしばしば出席するようになりました。そして、山室と出会ったのです。貧しい家庭の出身であった山室でしたが、その信仰と使命に共鳴し、二人は結婚したのでした。

 ちょうどその当時、救世軍は※廃娼運動を積極的に展開し、廃業した女性を収容する「婦人救済所」を設けました。機恵子は主任となって、収容された女性たちと共に住み、世話をします。凶作の年には、冷害地の少女を人買いから保護して、就職まで面倒を見る「女中(当時の言葉のまま。家事の手伝いをする人)寄宿舎」でも主任を務めました。

 また、明治末期から大正初期には、結核が猛威を振るい、「国民病」と言われていました。「年々13万3千人、1日360人以上、4分間に1人が死んでいる。感染者は死亡者の十倍と言われているので、130万人以上の患者がいることになり、50人に1人の結核患者がいる」(『ときのこえ』結核特集号 大正5年2月11日発行)と記録があります。

 救世軍は、貧しさのために十分な医療を受けられない人々のための結核療養所の設立を目指します。機恵子はこの難事業に奔走することを決意。建設費を得るために千名にのぼる募金名簿を作成し、身重の体で一軒一軒訪問し、支援の依頼をしました。それは、周囲にいる人々の想像を超える働きでした。

 多くの子を育て、自身の健康も十分でなくなっていた機恵子でしたが、今までそうしてきたように、ただ、苦しむ人々のためにひたすら力を尽くしたのでした。

 そして、臨月を迎える直前の大正5(1916)年6月、入院が必要な状態に陥り、7月4日に男児を出産。その後容態は悪化します。

 7月12日、絶筆「神第一」、「幸福は唯ただ十字架のかたわらにあります」を遺して、41歳7カ月で亡くなりました。機恵子は、イエス・キリストが人々の救いのために十字架の上で命を献げてくださったことを、人生における最大の幸福の源としていたのでした。

 機恵子の死より約一カ月後、8月22日に療養所の上棟式がおこなわれます。その療養所が後に一般病院のブース記念病院となり、現在に至っております。

 自分のことで頭が一杯、心が一杯になりがちな私たち。機恵子の生涯を思う時、目を上げ、心を開いて、他の人々のためにできることはないか、と思いを広げてみたいと思わされるものです。

(救世軍士官〔伝道者〕)

※廃娼運動:一定基準のもとに国が女性の売春を公認していた(公娼制度)ため、女性の人権擁護の立場からこれを廃止させようとした社会運動。

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