ときのこえ 2014年1月号

「義の太陽」イエス・キリスト 勝地 次郎

ときのこえ2013年11月1日

 救世軍では、3・11東日本大震災以後、海外の救世軍からの資金援助を受けて、被災地に仮設商店街の建設支援をさせていただきました。
 その一つが、宮城県南三陸町の「さんさん商店街」です。「さんさん」は「SUN SUN」であり、商店街に注がれる太陽の光は復興を願う被災地の希望の象徴とも言えるでしょう。昨年、この商店街を視察させていただいた折り、海辺近くのホテルに宿泊し、その翌朝、水平線から昇りゆく太陽の美しさに思わず目を見張りました。それは、明るく、暖かく、新しい命の芽生えを感じさせる光のように思えました。

 「わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように 躍り出て跳び回る。」(マラキ書3章20節)
 旧約聖書に登場する預言者マラキは、真実な信仰に生きるイスラエル人に対して、義の太陽なる方が彼らを癒し、生命と回復力を与えてくださる、と説いたのです。義の太陽! それは、現代に生きる私たちの人生をも癒し、力づけ、真の命へと導いてくださるイエス・キリストを指し示している、と言えるでしょう。

 かつて、『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトは、日本の文化を「恥の文化」と言い、「日本人ほど、他人が自分の行状をどう考えているかということをおそろしく気にかける民族はない」と言ったそうです。「恥を知れ」とか「人様に対して恥ずかしいことはしてはならない」という考え方は、日本人特有の高い倫理性を産み出してきていると言えるでしょう。しかし、そこには、万物を創造された神に対する思いはなく、「神に対する恥ずかしいことを罪」としてとらえる「罪の文化」は成り立ってきていないのです。

 聖書は
 「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)
と宣言しています。そうであるならば、どうして神の御旨を痛める諸々の悪しき思いやおこないを、罪として告白しないでよいでしょうか。

 イエス・キリストの十字架上の死は、人の罪が赦され、神と人との関係が正しくされ、赦された罪人として、人と人の関係も正しくされるためにありました。
 「義の太陽」の「義」は、「正しい」を意味していますが、イエス・キリストは、ご自身を救い主として信じる人々の罪を赦し、正しい者としてくださり、その人生を明るく照らし続けてくださる「義の太陽」であるのです。

 鳥がその翼をもって自由に飛ぶように、義の太陽なるイエスもその翼を広げ、貧しい人、疎外されている人を慰め、励まし、その悲しみを癒されました。牛舎につながれた子牛が、解き放たれた時、喜びのあまり飛び回るように、真の愛を知り、重荷、苦しみから解放された喜びにまさる喜びはありません。ある人は、主イエスの救いを受けた時の喜びをこう表現しました。
 「うれしくてうれしくて、夜、寝ている時、足をばたばたさせたくなった。」

 そうです。義の太陽なるイエス・キリストは、今日もあなたに呼びかけているのです。
 「疲れた者、 重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)
 
 イエスの愛に触れ、闇から光へと人生が変えられたパウロは、こう言っています。
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリント人への第二の手紙5章17節 口語訳聖書)

 漆黒の闇を打ち払うかのように昇りゆく太陽の光にも似た主イエスの愛。この愛の光に導かれ、希望と喜びに満ちた新年となるよう心から祈ります。

(救世軍士官〔伝道者〕・司令官)

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